| Q10. | HITOTSU学では、「これからは心の時代だ」と言っていますが、 共産主義の唯物論の物質についてHITOTSU学はどう解析するのか、 それから、その唯物論と相反するカトリックやイスラムなどの宗教の信仰、精神世界をどう解析するのですか? |
| A10. |
①共産主義の唯物論は、私たちが生きている宇宙自然が物質から成り立っている観点をとっています。 人間の理性や感情など、信仰心(高度な精神活動)さえも人間の脳の化学反応のメカニズムによって成り立っている世界であると言っています。 ですから、人間の体も、人間の体が認識する人間の宇宙も、人間の脳という高度な物質の働きの副産物であるという立場をとっています。 このように、物理的な法則ですべての存在と変化現象を理解しようとする思考方式が唯物論だと思います。 ②客観的経験の本質は、反復、実験、調節、検定できる経験、部分的経験ですが、信仰などの精神世界は、 反復できない特別な経験を土台にした当事者の決断選択意志による主観的経験の連続が信仰心、確信の世界だと思います。 五感覚で認識できる客観的事実(自然現象、社会現象)、結果より、 その結果を生み出す動機、原因(神などの絶対者)を追究する世界観を持っているのが、宗教の信仰などの精神世界だと理解しています。 この理解の観点からみたときに、「私たちが生きている宇宙自然が物質(存在)でできているのか、 それとも心(認識)でできているのか」、という質問に対して、どっちが正解なのか選択することは意味がないのです。 なぜなら、それよりも「心だったらどんなイメージの心なのか」「物質だったらどんなイメージの物質なのか」が重要だからです。 古い物質の概念は、一定の大きさ、重さを持っているのが当たり前ですが、最先端の物理学では、固定された大きさも重さも持っていない、 運動のスピードによって相対的に変化するものであるという新しい概念に変わっているのです。 今までの唯物論の物質の概念と今までの精神世界(唯心論)の心の概念の限界は、 なぜ人間の脳の認識現象が起きるのかを説明できないこと、 「人間とは何なのか」「生きることは何なのか」に対する時間、空間、 存在すべてを取り組みながら、全体とつながって説明、解析が可能なイメージを持っていないことなのです。 すべての判断の基準である「人間とは何なのか」が決定されない状態では、 日常生活、ビジネス生活の多様な放棄と選択、そして表現と創造に具体的かつ明確に役に立たないのが唯物論と唯心論の限界だと思います。 「心とは何か」、あるいは「物質とは何か」に対して、 物質と心を同時に満足させる共通のひとつのイメージで統合説明できるのが、HITOTSU学の新しい観点なのです。 HITOTSU学が言っている「心」とは、すべての存在を存在させ、変化、運動、移動させる究極のひとつ、 すなわちオリジナルマインド、あるいはオリジナルポジションといっています。 これは、自然現象、社会現象、心理現象など人間の五感覚が認識するすべての存在現象と認識現象を一つで説明できる 「次元上昇されたHITOTSUのイメージ」です。 HITOTSU学が言っている「心の時代」の心とは、物質(存在現象)もできたり、意識(認識現象)もできたり、 両方を自由に往来できる世界、すなわち人間の意識を超えた大自由の心をオリジナルマインドと言っています。 |
