| Q5. |
HITOTSU学の価値はどのようなものですか? それが今までの学問と、どんな差別性を持っているのですか? そのHITOTSU学の内容を知りたいという欲求が市場にあると思いますか? 教育理念を含めたHITOTSU学の価値に対する考え方を聞いてみたいです。 |
| A5. |
この世の中をどのように観察・理解・表現し、それを共感共有・伝達するかにおいて、
今までさまざまな学問 -哲学、音楽、数学、美術、自然科学、人文社会科学などの多様な学問-が開発されてきました。 自然現象、社会現象、心理現象、歴史文化現象に対する研究が進む中、専門化・細分化の傾向と、 統合化・融合化の傾向という、大きく2つの流れで新しい学問が胎動されてきました。 このように多様な学問が最善を尽くしてきましたが、人類の切実な希望である「人間とは何なのか」「生きることは何なのか」また 「人間とは、何を知ることができ、何を実践することができ、何を希望することができる存在なのか」に 対する明々白々な定義が決定されていないのです。 宇宙的で多様なすべての存在と人間との関係性を説明できる全体的かつ具体的な人間観、 すなわちすべての人間が共有共感でき、日常生活やビジネス生活に活用できる「人間に対する定義、アイデンティティ」が定まっていません。 すべての学問や思想哲学が、「人間とは何なのか」という根本的な質問に、直接あるいは間接に関係を行う(する)ことしかできないのは、 学問とは、結果的に「Of the People By the people For the people ―人間の人間による人間のための追究活動であること―」 を否定できないからです。 自然科学は対象が人間ではなく、純粋な自然そのものを研究対象にしていると言いますが、HITOTSU学の観点から観ると、人間の5感覚と脳から見た自然、即ち人間が認識した自然現象が対象になっているのです。 ですから、自然科学も、人間の認識との係わりを否定できません。 「りんごが落ちる」という自然現象が成り立つための要素として、例えば可視光線が必要ですし、 人間の目やりんごという物質、またその物質が落ちるように見える物質の動きなどが必要です。 「りんごが落ちる」という自然現象には、人間と分離独立された実体、自然現象は存在しません。 つまり存在しているように分離独立して見えるのは、人間の脳の錯覚の芸術であり、人間の脳の勝手な思い込みなのです。 生まれた瞬間から目の見えない人が、りんごの色や模様、またそのりんごが落ちるイメージなどを想像することが不可能なように、 アリの目や犬の目、カエルの目からは「人間が認識するりんごが落ちるイメージ」は想像不可能な世界でしょう。 人間が認識する世界は、人間の勝手な思い込みの宇宙なのです。 自然科学が科学技術を開発し、多様な商品をつくることに成功し、私たちの生活は物質に恵まれ、体が便利になり、 よって様々な世界と接触できる刺激や感動を得られました。 しかし「人間とは何なのか」「生きることは何なのか」という学問の本質的な疑問に対する答えは現状では期待しがたいと私は見ています。 すべての存在、自然現象を人間の認識現象と捉えない現在の科学的な思考方式、 観察方式、理解方式の出発点。 そのように、人間と関係ない分離独立している客観的実体として、存在、自然現象を観察する理解方式、 思考方式に問題、限界があるからなのです。 つまり学問の出発自体に限界があるから、自然科学では「人間とは何なのか」の答えを期待するのは難しいと思うのです。 更に自然科学は、人間と自然の接触、認識を通して表現された法則にすぎません。 その法則も、精密、正確、そして固定不変ではなく、統計的な確率法則だけなのです。 それが人間の認識レベルでは「不変な絶対法則のように見えるだけ」なのです。 人間の認識が関係しない自然科学の客観的真理、自然科学の存在論的学問は存在しません。 ですからすべての存在論的な学問には、「人間が何なのか」「生きることが何なのか」の答えを期待できないのです。 HITOTSU学は、自然現象、社会現象、心理現象、歴史文化現象などを、 人間の五感覚と脳の認識の結果、すなわち、人間の認識現象、一言で言えば人間現象と規定しているのです。 この現象が行われている本質的な理由、本質的なメカニズム、すなわち、人間の認識システムを専門的に探求、 研究する統合認識学問です。 今までの存在論的学問の限界を突破させていく統合認識学問として、この時代の人類に役に立てたらと思います。 自然の産物を交換交流する農業社会から産業革命が起こることで、産業社会が発達し物質文明が大きく発達しました。 そのように、自然的な認識物、認識の結果を交換交流する情報知識社会に認識革命が起こり、 認識経済、認識社会が発達することで精神文明が大きく発達できるのです。 それにより、今までの物質文明と精神文明の融合が起きるのです。 その人類の多様な可能性の花を咲かせることに、HITOTSU学が役立てればと思います。 力の法則、万有引力の法則、運動の第一、第二、第三法則、四柱推命などのように、 理論がなければ、その現象に対して深い意味を与えたり、意味のある解析を語ることは不可能です。 そのように宇宙自然現象、宇宙すべての存在、その存在の変化現象と人間の認識を連結、統合、 説明していく理論がなければ、その認識現象、人間現象が行われている真実、本質を観察するのは不可能なのです。 ですから「人間とは何なのか」「生きることは何なのか」が説明できないままなのです。 HITOTSU学は、「人間とは何なのか」 「人間と人間が認識する宇宙万物の関係はどんなものなのか」という質問に明確に答えるために、 認識革命、すなわち次元上昇された認識が必要だと言っており、現在そのための“意識の無意識化”、 “無意識の意識化”という独創的な理論を体系化し、普及させています。 その理論により、認識と存在が統合された状態が観察、確認可能になるのです。 人間は動物と違い教育が必要な存在です。 生まれた瞬間から専門機能を備えている動物は、反復訓練だけで生存活動が可能です。 しかし生まれた瞬間に専門機能をまったく持たずに不完全な状態で生まれる人間は、 終わりなき自己開発および、関係を結ぶ能力を学ぶ宿命を持っている存在だと私は思います。 関係を結ぶ能力とは、つまり「コミュニケーション能力」とも言い換えることができます。 今まで人類が経験した教育現象や教育の本質を考えるとき、 「何をなぜ教育しなければならないのか」「どのように教育するのがいいのか」に対する明確な答えを提供していないと思います。 人間になることを教える教育が、「人間とは何なのか」をわからない状態では、 「人間とは何か」の答えの上で人間になることを教育することができない、という矛盾に陥っているのです。 教育機関や様々な学問が溢れるようになりましたが、多様な問題、犯罪、苦しみ、 不安もより一層深刻化しているのが現実です。 このような状況を前に、私たちは今、その問題の原因を教育と学問にこそ問う必要があるのではないでしょうか。 どんな人間なのかは、言い換えればどんな教育を受けてきたのか、つまりどのような学問を基礎としているのかだといえるからです。 だからこそ、新しい学問HITOTSU学を通して、今までの学問と教育の不完全を少しでも補完することができれば幸いです。 環境と直接的に連結され、反応する本能のメカニズムによって動いている動物は、 環境をコントロールする反復訓練を実行することで、行動習慣を創造することができます。 しかし人間の行動は、環境に直接連結され、反応する本能メカニズムによる動きよりも、 環境に選択的な連結をすることによって、選択的反応をする自由意志、選択意志による動きを行う存在ですので、 環境をコントロールする反復訓練を通して新しい行動習慣を創造することはできないのです。 ですから人間には、訓練ではなく教育が必要な存在のです。 資本主義である今の時代の教育は、ビジネスライフを通して現代にあった人間活動ができるように案内することが必要です。 人間活動には方向性、目標が必要ですし、そのためには必ず放棄の決断が伴う選択、 またその選択したものをどのぐらい深く消化、吸収し自分のものにするのか、 そしてそれを隣の人たちにわかりやすく伝達、表現できること、 それを通して影響力をもち自分の価値を実現していくことができるように案内することが教育だと思います。 どんな決断、選択をさせ、どんなライフで表現するようにするのかは、 各々の時代、文化、共通基盤、歴史認識、思想哲学的基盤の上で教育が展開されてきて、 その伝統文化を土台にした共同体創造が、人間行動の最終目的地ではないでしょうか。 歴史と共に、また学問の歴史的な変転によって人間観が変化し、それによって共同体創造の性質が変化するのです。 私たちは今、今までの人間観や共同体の性質を洞察した上で、 今からの時代が必要とする人間観、 そして全人類が共に創造していくことができる開かれた共同体文化に対する意見やイメージなどを、 活発に交換交流できるコミュニケーション能力が要求される時代に生きているのです。 自然現象、社会現象、心理現象、歴史文化現象などすべては、 人間五感覚の脳の勝手な思い込みであり、人間の脳の認識結果態、認識現象、人間現象だけであると言えば、 「そんなバカなことを言うな」と怒ったり、「理解できるが、 もしそうなら今までのライフと今からのライフの意味はどうなってしまうのか。 虚無主義にはまってしまうのではないか」などの声が聞こえてきたりします。 しかし、考えてみてください。 目に見える五感覚で認識するすべての世界が虚偽であることを明確にわかれば、 逆に「真実とは何か」を追究するようになるし、生きていること自体が尊いことであり、 ライフの神秘さに感嘆することもできます。 そうなれば日常のマンネリもつぶれ、 人類が「自分の主義主張だけが正しいと確信すること」から摩擦衝突を起こし、 更には殺人戦争まで行ってきた愚かな行動をからも完璧に自由解放されてしまうのです。 ですから反対に人間を大切に、生きることを大切にする、真実なコミュニケーション文化が定着すると私は確信しています。 HITOTSU学の理解する人間は、学校の教室の中で意図的に準備された教科書とプログラム式学習法だけで調節できる存在だとは思わないのです。 逆に学校と教室の境界線を越えた、ビジネスライフの現場から、ビジネスライフを道具にして、 より優れたビジネスライフ、新しい産業、新しい職業、 新しい商品誕生を実行しながら、次元上昇された共同体を創る過程を通して、気づきと感動を蓄積させていく学習法を選択しているのです。 人間理性を全部動員してまでも知らなければならない、一番根本の中心内容「人間とは何なのか」「生きることは何なのか」を、 HITOTSU学を通して短期間集中で認識できるようになる学習、理論プログラム、またその理論を現場で実践活用し、 現場で確認でき、新しい現場をつくる行動習慣をつくっていける学習法なのです。 このような「ビジネスライフスクール」の形でHITOTSU学の教育、オルターカレッジを運営しているのです。 人間は、限りなく多様に人間行動を行っています。 行動には当然、放棄と選択があり、自分が選択したものに意味と価値を与えながら人生を創造していくのです。 放棄と選択は、大きく二つのパターンの確信のもとで行っています。 一つは客観的経験の蓄積で、判断基準が人間肉体中心、すなわち、五感覚と脳の認識判断の絶対基準によって反復、 実験、証明、確認を土台に確信を持つようになるのです。 もう一つは、主観的経験の蓄積が判断基準になります。 すなわち、五感覚と脳の認識はただの参考で、自分が決断、 選択した自分の意識世界を判断の絶対基準で持つようになり、例えば決断の意志、情熱、宗教の信仰心など、 その理性の反復の確認を土台に心中心の確信を持つようになるのです。 しかし、その客観的な経験と主観的な経験の、2つのパターン両方共にHITOTSU学の観点から見れば「人間中心主義(誤った流れ)、 あるいは自分中心主義(誤った流れ)にはまっているのです。 人間中心の認識メカニズム、イメージ、思考、論理、感情、思い込みに執着することにより、 人間がつくった言語で実験し、事物を決定して名前を付け、人間中心的解析、意味を与え、用途、目的、意味、 価値を規定する誤った流れになってしまうのです。 更に人間の脳は、どんな対象に対しても、与えられた全ての関係材料を全部活用して決断、決定をすることができないのです。 つまり、人間の五感覚によるデータ情報だけが優先され、その全体の中でも一番差別性が見える情報だけを活用し、判断、決定する習慣なのです。 人間が思う人間、人間が思う地球、人間が思う自然現象、社会現象、心理現象、人間が思う時間空間などは、 真実ではなく、五感覚人間脳のアウトプット画面、出力画面であり、勝手な思い込みなのです。 本当の真実の世界は、観察主体と観察対象が終わりなく溶け合い、なくなり、また新しく生成創出されている絶対自由な諸行無常、 諸法無我の一つの世界だけなのです。 この一つの世界、つまり「次元上昇されたHITOTSUのイメージ」で、 人間のすべての認識現象を説明、すなわち、意識の無意識化、無意識の意識化のメカニズムを通して解析することがHITOTSU学の観点なのです。 人間の活動が、脳の認識、判断、決定する脳の習慣、クセと密着された状態でおこなわれているのであれば、 人間活動の結果は当然、多様なズレ、葛藤、分離格差、摩擦、紛争を起こすと言えるのです。 このようなズレ、葛藤、摩擦、紛争を起こす究極の根本原因を正しく把握しないまま、 対話によって和解、説得、解決しようとしても難しく、また多くのエネルギーの浪費ができてしまいます。 多様な問題解決を暴力的力の論理に依存するのか、 それとも平和的な説得、平和論理に依存するのかということは、 その時代、その社会の文化文明の高級性の確認バロメーターだと思うのです。 力がある人の言葉が影響力をもつ社会であり、 時代なのか、それとも言葉の力、説得力が影響力をもつ社会であり、時代なのか。 説得を通した問題解決が、力の論理による問題解決以上に、より肯定的な結果を生むとき、 その社会、その時代は素晴らしい未来を期待できると思います。 どんな人間になって、どんなコミュニケーションをとるのか。 そして、どんなビジネスライフで表現、創造できるのかによって、 ①個人の人間力、②人間関係力、パートナーシップ、③組織力、リーダーシップとフォローシップが決定されると見ています。 「人間とは何なのか」に対して、誰もがそれぞれにイメージを持っており、 そのイメージによって判断基準、判断のものさしが作られています。 問題は、その自己流の判断基準、判断のものさしが絶対に正しいと無意識で確信をしていることです。 無意識で自分の判断基準が絶対に正しいと思い込んでいますから、 結果的に他人の表現に対しても自己流の判断基準によって受け取り、解析し思い込んでしまうのです。 先生とはこういうもの、学生とはこういうもの、女性はこうあるべきなど、 またあるいは「ねばならない」という無意識的な強制システムを自他共に要求してしまうのです。 このような判断体系が人間関係、コミュニケーションの世界に問題を起こす根本原因となっているのです。 自分自身の限られた過去の経験、知識データを根拠にした不完全な無意識判断体系、 人間五感覚と脳の勝手な思い込み体系を絶対判断基準としてそこに依存する場合、人類の不幸は永遠に解決する日がこないでしょう。 「人間とは何なのか」「生きることは何なのか」をはじめこれらは、人間なら一番知りたい内容ではないでしょうか。 世の中一般的に学校で学ぶのにお金がかかるのは当然ですし、人間が最も知りたい内容であれば尚更、お金をかけてでも学びたいものです。 ですからHITOTSU学のような商品(認識商品・心をスッキリさせる商品)に対する見えない市場の欲求はかなり大きいと思います。 また国家破産を目前に控えていると言われる今日、早急な新しい商品、ビジネス、産業の開発が求められていますから、 その解決にも役立てることを願っています。 |
