2017.04.30 コラム

「正しく知る」とはどういうことなのか?

人間は生きる上で常に考えています。しかし、そもそも何をどのように考えればよいのかがわからないという、本質的な悩みを抱えています。

正しく考えるための条件・基準軸とは何なのか、考えはどこからどのように生まれて、終着点はどこなのか、といったことを考えてみたことはあるでしょうか。

これまで人類が真摯に追求してきたどんな思想、哲学、科学の領域であっても、これらを明確に解決できる最終解答を提示するまでには至っていません。

この悩みを解決するための最も重要な問いは、「人間は何を知り、何を行い、何を希望するべきなのか」というknow、do、hopeの三つの本質が重要なテーマとなります。

三つの中で、knowにあたる「人間は何を知るべきか」が最も重要といえます。なぜなら、私たちが行動したり、望んだりする土台のすべては「知ってること」であるknowから出発するので、そのknowが間違っていたらあとは全部崩れてしまうことになるからです。

 

では、私たちはよく「知ってる」と言いますが、そもそも「正しく知っている」とはどういうことなのでしょうか。

何かを「正しく知っている」というためには、まず「正しく知ること」についての明々白々な定義が必要です。しかし、今まで正しく知ることに対しての明確な定義がされていません。なぜならば、宇宙自然の根源を知らない状態では、この定義が不可能だからです。

観術では、正しく知るとは、「どこから、どこまで、どのように知ることが、正しく知ることなのかをわかっていること」と定義しています。「どこから、どこまで、どのように」という正しく知ることの三つの要素が入っていない知識は、観念、思い込みであり、独断的な知といえます。

この定義はすべての「知」に対して適用できるものです。多くの人はこのような「正しく知ること」の本質的意味について、学校教育や社会の中で深く学ぶこともないまま、よくわからない状態で考え、行動しているのではないでしょうか。

 

例えば、「心の豊かさが大事」という表現をするときに、そもそも「心とは何か」という定義や理解が曖昧な状態、すなわち「どこから、どこまで、どのように知れば、心について正しく知っているといえるのか」を明確に説明できない状態にもかかわらず、無意識に「自分は正しく知っている、わかっている」と思い込んでいるのです。

これは、今までの教育に大きな問題があると思います。事実データや単語や方程式、因果論をただ暗記させるので、その意味の本質を深く自らが探求し、明確な定義を示すという姿勢ができていないまま、単に暗記したことを「知っている」と、表層的な次元で思い込んでいるのです。

しかしその状態では、質問を一つ二つされるだけで、何も答えられなくなってしまいます。それは、自分が知ってることが正しいのか、正しくないのかを判断する根拠がなく、すべての知識が実は曖昧だからです。

哲学者イマヌエル・カントも、純粋理性批判の中で「人間は何を知ることができるのか。あなたがどれだけ賢いことを言っても、どんな論理展開をしても、それが正しいと言える根拠がどこにあるのか」と、人間の理性の限界を説いています。

 

宇宙自然の根源を知り、その根源からみたときに、正しく知ることの定義である「どこから、どこまで、どのように知ることが、正しく知ることなのか」の三つの要素が明確になります。その明々白々な知識を叡智といいます。

この叡智がわかることで、何をどのように考えればよいのかの判断基準が明確になり、自分の考え、感情、言葉、行動、人間関係を整理し、それらを再構築することができるようになります。そして、健康で幸せなライフスタイルや人間関係、理想的な組織経営、理想的な社会秩序などを具現化する方法を得ることができるのです。

認識技術「観術」では、「どこから、どこまで、どのように知ることが、正しく知ることなのか」を、絶対世界と相対世界の関係性を明確にしながら、観術オリジナルのイメージ言語を用いて説明しています。今までの教育の限界を補う認識技術にぜひ関心をもって頂けると幸いです。

Noh Jesu