2019.06.03 令和哲学シリーズ

【令和哲学⑪】真の信念と不動心の塊・侍ジャパンで、“やっと始められる”令和時代をひらこう

6月がスタートしました。新元号・令和が降りて一カ月が経ちました。

人類歴史最大のイベントが始まって以来、薄氷を歩くようなハラハラドキドキの緊張感が続いています。令和ののぼり の意志にずれない日々を過ごしたい、その想いでワクワクな緊張感を楽しんでいます。

多様性、複雑性、格差、差別、偏見などを理解、統制できず、痛く悲しい悲鳴があふれる中、「英雄の集団を誕生させたい」という宇宙自然の意志が、天から地に静かに降りました。そして、みそぎ をしながら、耐え忍ぶ心で時を待ち続けた英雄集団・日本のリベンジ勝負の意志が、龍のうねりのように振動し、2019年5月1日、天が開いて心の時代を告げる令和という荘厳な大海原の音が降りてきています。

令和シリーズ⑪では、今「1」(=今ここひとつの心)のBeautiful Harmony状態(令和状態)を、真の信念と不動心、すべてを手放して始められる心というテーマで語ってみます。

信念はどのように創られるのか、そしてどのように得ることができるのか?

信念を「正しいと信じる自分の考えだ」としたときに、何が正しいと言えるでしょうか?

「正」の字を分解してみると「1で止めていること」と理解できます。

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自分が知っていることを、究極にシンプル化して説明できなければ、「正しく知っている」とは言えません。

人間と人間の宇宙すべてがとけてひとつになる、すなわち多様なS(主語)+V(述語)がとけ、世界の根源、源泉的な動きである“ひとつの動き”とつながった状態で理解することがとても大事です。

知っている世界を絵で的確に表現できなければ、それは哲学の対象にもならず、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」、言葉で話せないことは沈黙しろと言語哲学の第一人者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは著書『論理哲学論考』で語っています。彼は絵としての言語で構築した自分の初期哲学を自ら破壊し、ゲームとしての言語を得ることで、立派な哲学構築に成功した人だと私は思います。

旧い ふる ものすべてを手放し、今ここ分離不可能な源泉的なひとつの動き、真実世界、絶対世界とつながることで、正しく知ることができ、同時に信念も獲得可能になります。一度すべてを手放し、絶対世界そのものとひとつになり、そこからつながる新しい概念になったときに信念を得られるのです。

言い換えれば、このとき、体の目で見るのではなく「概念」で観られるようになる。つまり模様・形が見える状態で、現実を存在化させて見るのではなく、信念が伴った概念で観えるようになるのです。この世を違う形で見たいのであれば、すべてを手放し生まれ変わった全く新しい概念、信念をもつことで、全く違う世界を観ることができるのです。

現実世界のすべてのS(主語)とV(述語)は、ホログラム、錯覚であり、映画のようなもので、真実ではありません。

ヴィトゲンシュタインは、日常のS(主語)とV(述語)で表した言語の世界が、バーチャルゲームのようなものであることを悟り知ったのでしょう。そこで、絵としての言語から、ゲームとしての言語を生み出し、立派な言語哲学を完成させたのだと私は思います。

批判や疑問を持たないまま盲目的に信じたり、追従したりするレベルの生き方では、真の信念を持てるはずがありません。つまり「今までの人間ゲームに従う生き方」では、真の信念は生まれないのです。勇気を持って今までのゲームを超え、さらなる楽しみや喜び、感動があふれる自分のゲームを設計し、自分のゲームを展開できたときにやっと生まれるものが、真の信念だと言えるのです。

すべてを手放すことを恐れないのが侍精神です。これは「肉を切らせて骨を断つ」という、間(ま)のとりかたの究極の知恵をもった侍の心とつながります。その日本の心は、他の追随を許さないほど優れており、突出して目立つ、唯一無二の手放すことを恐れない心だと私は思います。

三井グループの起源を開いた三井高俊の物語を聞いた時、私はとても感動しました。1600年代、徳川家康による戦国時代が終わり、平和な時代に入ろうとする頃のことです。彼は、武士を廃業して刀と自らの身分を捨て、士農工商という階級制度の最上位である武士から、最も低い商人を選び、醤油やお酒を製造販売するビジネスマンに生まれ変わるのです。その後、明治大正期では三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立し、戦後の米軍支配のときには、200社余りに分社し、全世界で3万人を雇用する大企業、三井グループにまでなったのです。すべてを捨てて手放す三井高俊のような精神は、日本の文化文明の中に、日本人の心の中に深く根差しており、勇気と知恵が詰まっていると感じます。

幕末期、武士は自分の命や名誉を守ってきた刀を手放し、明治維新を成功させました。これは簡単に真似できることではありません。英雄集団でなければ不可能なことですし、とても勇気ある決断です。また短期間で、天皇を中心とした日本帝国主義の大成功をおさめましたが、これもすべて手放し、テロや暴動も起こさずアメリカを受け入れたことも、英雄集団でなければ到底できません。このように“絶対だ”思っていた既存の世界を全て手放す勇気は、「生きたまま死ぬ武士道精神」があってこそ可能なのだと思います。

このことをさらに掘り下げ、「新しくゲーム設計ができることで、やっと信念を得られる」という理由に対して考えてみましょう。

人間には「ゲームのルールに疑問や批判を持たない」というクセがあります。例えば人間は、体の目で見てデータや情報、知識を生産するというルールのもとに活動しますが、そのルールに疑問を持ったり、問題提起したりしません。科学的方法で冷静にみれば「人間の目が絶対に正しい」という基準点はおかしいのですが、それを疑わずに、盲目的な信念として持ちながら、その生き方を続けています。

人間が自然に不幸になる根本理由は、「今ここ、体の目で見ているから」だとnTechエヌテック(認識技術)では言っています。体の目で見た人間のデータ活用能力は、電子アルゴリズムであるAI(人工知能)が活用するビッグデータの競争相手にもなりません。

それだけではなく、人間は永遠に「自分が何なのか」を知ることができないどころか、何を知り(know)、何を行い(Do)、何を希望すべきか(Hope)の答えを得ることができないまま、迷路の中を確認するだけのゲームで終わるのです。それはつまり、人間の脳の観点の中の迷路を右往左往するという輪廻転生を繰り返すだけの無知で愚かなアバター人生で終わるということなのです。

ですから今ここ、体の目で見るのではなく、今ここ、すべてを手放して始められる心、一番大きな世界からみる「完全観察システム」が必要だとnTechでは訴えています。

新しいゲーム、自分のゲームを設計するためには、今までやってきたすべてを手放す強烈な勇気が必要です。今ここ体の目で見ずに、一番大きい世界、すべてを手放し始められる心、その新しい概念で物事をみる「完全観察システム」をグローバルスタンダード化していく実践モデルは、間違いなく日本から生まれると思います。世界最高の勇気を持つ日本文明からやるしかないと私は確信しているのです。

今ここ、体の目で見ることから始まるゲームは、人類500万年間の歴史を牽引しました。この物質文明を終わらせて、今ここ、すべてを手放し始められる心、真の信念と不動心で物事をみる精神文明の出発を具現化する英雄集団・日本になれること、その英雄集団の偉大なストーリーづくりにnTechが貢献できたら幸いです。