2012.08.04 コラム

人間の尊厳性

最近ニュースで話題となっている「いじめ」の問題について、みなさんはどう感じられるでしょうか?同級生に金銭を巻き上げられ、鉢巻で首を絞められ、死んだ蜂を食べさせられて、自殺の練習までさせられた結果、自殺の道を選ばざるを得なかった少年の心には、いったいどのような想いが蓄積されていたのでしょうか。

これまでの報道では2週間も経てば古い話題として忘れ去られていたことが、今回は2週間経っても様々な番組でこの件が取り上げられています。昔から全国どこにでもある風景だった「いじめ」、その被害者や家族、友達、心ある人たちが、見て見ぬふりをし、泣き寝入りすることをSTOPして、「いいかげん、この問題に取り組まなければならない!」というNewStart:決意の心が、今回の報道の姿勢には現れているように感じます。

今回の悲しい事件の舞台となった滋賀県大津市の中学校周辺では「同じ中学校に行かせたくない」という親御さんの声が多いようですが、これは引っ越したり、転校したりすれば解決する問題でしょうか?いじめの存在しない学校というのは本当にあるのでしょうか?そもそもどうしてイジメがおきるのでしょうか?

みなさんは、イジメが生まれる原因は何だと思われますか?

水が低きに流れるように、ストレスを貯めた人間は、自分より弱い相手に対してそのストレスを発散します。

自宅で親が子供に暴力を振るう幼児虐待。同じく中高年が、親の介護で我慢しきれなくなったストレスを当人に発散する高齢者虐待。単純な暴力ではなく性的暴力を伴う性的虐待。家庭内の暴力や虐待は把握されていないものの方が多く、どれだけ多くの方が犠牲者になっているか想像もつきません。

会社でも上司や経営者が部下や非正規雇用者に対してストレスを発散します。その形態により、セクハラ・パワハラ・モラハラなど様々な単語が生まれていますが、これも強い者が弱い者に、立場が上の人が下の人に向かってストレスを発散している形態に名前を付けて存在させていることには違いありません。

学校では力の強い子、気の強い子が、気の弱い子に対して、様々な形でストレスを発散しています。

例えば、社会→経営者→社員(お父さん)→息子→(学校の)同級生と、ストレスの発散が伝播していった先に、誰にも自分の抱いている考え・感情を爆発できない子どもが位置していたら、彼は受け続けるだけのストレスに対して、どのような対処を取り得るでしょうか?圧縮しかない世界の中で、どこに爆発できるポイントを見つけられるのでしょうか。

それが自殺だった、というケースは今回の事件に限らず全国・あらゆる世代に渡って見られる事実です。

人と人が暴力や権力、財力の力に支配された関係性しか築けず、ストレス・ピラミッドの最下層に位置する人間は死ぬしかない社会に、みなさんは生きていたいでしょうか?

そんな社会を、自分の子どもに遺したいでしょうか?

人間本来の尊厳性に気付かず、相手の利用価値だけを見て付き合う薄っぺらい社会で、労働者は歯車と変わらず、人間としての存在価値を見出すことは益々難しい時代になっています。定年退職して自分自身のアイデンティティーを失った後に、改めて自分探しをする人も少なくありません。

なかでも今、団塊世代の多くが老後と死に対する不安・恐怖を抱えています。

死は本当に実在するものではありません。ただ、生きることの終わり(Life Ending)ではありますが、Life Ending=人生の完成でもあります。なぜ、それが怖いのでしょうか?それは人生が完成されていないからです。多くの人が、この現実が錯覚であることに気付かず、夢を見続けている状態では、人生を生きたとも言い切れません。

和の産業化、悟りの産業化を通して、人間完成・人間卒業ができ、いまここ生きることが楽しくてたまらない状態で在ることは、生死を越えた世界です。

その世界を「和の産業」で現実化し、日本から新しい社会プレートにチェンジさせ、人間の尊厳性に溢れる未来社会を共に創りたい!そう私は常に願っています。すべての人間が個性の花を咲かせられる天国のような国を、この日本に創りたい。そう、切に願っています。

震災を機に、「誰かがやってくれる」の「誰か」は居ないことに気付いた個人個人が行動を始め、先月代々木公園で開催された反原発のデモには7万人以上が集まりました。ひとり、ひとりが、自分に出来ることをやる。その素晴らしい姿勢が社会全体を変え始めている。そんな時代の変化の足音が聞こえてくるようです。

Noh Jesu