2019.11.03 令和哲学シリーズ

【令和哲学30】映画『ジョーカー』シリーズ(1):映画『ジョーカー』を通して〜生きること以上に価値がある死とは何か? 我慢して秩序をつくる心ではなく、∞の爆発を通して秩序をつくる心、それが今ここひとつの美学の世界~

先日10月4日に公開された、映画『ジョーカー』を見てきました。

コメディアンを夢見る主人公アーサー。ひとりの人間がなぜ狂気あふれる“悪のカリスマ=ジョーカー”に変貌していくのかが描かれています。

映画ジョーカーは、世間的にかなり話題になっている映画です。
その理由は、主人公の精神状態が現代人とオーバーラップできる場面がたくさんあるからだと思います。いまの時代は宇宙空間が1個に実在している価値観から、宇宙空間が無限大あったりなかったりする量子力学的価値観へと世界観が移動している、不安定な精神状態になりやすい価値観の大転換の時代であるからです。
もうひとつは、主人公アーサーの主義主張ストーリーが主観的妄想なのか客観的事実なのか、アーサーのお母さんの主義主張が主観的妄想なのか客観的事実なのかによって、映画自体の解析シュミレーションが、多様な結論と多様な意味価値のメッセージを提供しているので、1回だけ映画をみて、自分が認識したシュミレーションと違う解析に出会った時、もう1回映画をみたくなる心理が働くのです。
この映画監督は意図的に曖昧・混乱、どちらでも解析できることを上手にストーリー展開の中にいれているので、映画をみる観客の選択によって、多様なシュミレーションが可能になる映画をつくることに成功しています。

私は令和哲学シリーズ30でこの映画を通して、個人主義・全体主義の限界を認識し、令和哲学が案内する美学主義・共同体時代の意味価値を整理整頓する観点で、映画の感想を展開したいと思います。

(ネタバレ注意:この記事には映画『ジョーカー』の重大なネタバレが含まれています)

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「この人生以上に硬貨な死を望む」という言葉が、映画の冒頭に出てきます。

生きることよりも価値のある死を望むとは、どういうことでしょうか?

主人公アーサーは、ゴッサムシティ市長候補トーマス・ウェインの息子である可能性がありました。

しかし、当時家政婦として働いていたアーサーの母親ペニーは「妄想癖のある精神病のせいで、自分の養子をウェインの息子だと言い張っている」とウェインに主義主張されてしまいます。この彼の“富裕層側”の論理はでたらめであり、アーサーは家政婦とウェインの間に生まれた子供の可能性が高いと私は見ています。

そんなアーサーは、恋人に虐待されても防衛してくれない母親から『どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい』と、力がないから笑っているようにと教えられます。

自分が産んだ子供を自分の子供だとさえ言うことが許されない。自分が存在することも許されないなどというこの現実は喜劇でしかない、と彼は笑って生きようとします。

お金や政治権力を持っている人間側からすれば、この母親とアーサーに存在されては迷惑でしかなく、生きることや模様・形があること自体が失礼なことになります。アーサーにできることといえば笑うことくらいであり、この世に何の役にも立たないし、国家のお金を使うだけの連中だと思っているのでしょう。

この映画の根底にあるものを悟りの世界から観ると、“有”より“無”が価値がある時代であり、“模様・形がない世界”が“形がある世界”より価値があり、“イメージ不可能な世界”が“イメージ可能な世界”より価値があると、nTechでは解析しています。

偽物や嘘よりも本物や真実の方が価値がある世界であるにも関わらず、この世界を西洋の観点からみてみれば、貧富の格差があり過ぎて、AI時代に量産されると言われている無用者階級ばかりとなり、人間のその用途機能などは、もはや何処にも使うところがないから、いっそ死ぬ方がマシだと思うくらい悲惨で残酷で屈辱的なこの現実社会。この状況は、動物のような弱肉強食の汚い世界以外の何ものでもなく、お金も力もない人間の因果論理は通らず笑うしかない、とこの映画の中では描かれています。

権力もお金もある人間は、自分の子供でさえ 精神病者の養子だ!妄想だ!と勝手に創作ができてしまう状態ですから、原因と結果には一貫性すらありません。

ですから主人公アーサーは、次第に精神状態が悪化し、気持ちとは無関係に笑いが爆発してしまうようになります。それほど悲惨、残酷、屈辱の強烈なショックを受けて、精神までが破壊されてしまうのが貧富の格差が生み出す世界なのです。

これは人間にとってどれだけ悲惨なことでしょうか。

鬱になってしまうことは嫌であるけれど、本当のことについて考えてしまえば鬱になってしまい呼吸すらできなくなってしまうから、彼はもう笑うしかなくなってしまいます。

彼の唯一の生き甲斐であった母親に対しても、こんな悲惨で残酷で屈辱的で馬鹿な目に遭うくらいならば生きていること自体が恥ずかしいし、死ぬ方がマシだよ。なぜ模様・形がある方がいいの?模様形がない方がよっぽど価値があるよ、と彼は母親までも殺してしまいます。

そうしてアーサー自身は、遂に生きる意味価値を完全に失ってしまいます。

ピストルをアーサーに渡した友達もひどい人間だと、私は思いました。

これではアーサーも人間不信になってしまいます。道化師・笑いの業界では競争相手であるため、相手を潰して人生をおかしくさせるために「誰にも言わない」と言いながら告げ口することで足を引っ張ったため、アーサーはこの友達を殺してしまいます。

ラストに、廊下を歩く主人公アーサーの血の足跡のシーンがありました。それはウェインが愛するべき自分の子供アーサーを産んだ母親を精神病者にさせ、そのうえ自分の子供を精神病者の養子に偽装工作してしまうことは、まるで聖人イエス・キリストを詐欺師に偽装工作して、十字架で殺してしまうヴィア・ドロローサの一歩一歩の道程のようなイメージが浮かびました。

アーサーは実の親からも受け入れられることがなく、誰にも配慮されることもなく、それどころか、精神病扱いされた母親の恋人達から虐待されることに対して、アーサーを守ることもできない弱者の母が言った唯一の言葉は「アーサー、笑って」でした。そんな我慢の連続の苦しい、悲惨、残酷、屈辱のひどすぎる人生が、アーサーが歩んできた人生です。

一方、街では人々の我慢が爆発し、警察の秩序ではその勢いを治めることができなくなっています。とても容易く信頼関係は潰され、人が人を信頼することがいかに馬鹿なことなのか、貧富の格差も酷すぎて、自分自身の存在感さえも認識できないのに信頼関係なんてないに等しい状況です。

主人公アーサーは、生きるからこそ感じるその苦しみを一生懸命にカウンセラーに喋るのですが、本来人の話を傾聴する仕事の彼女は一度たりとも彼の話を聴けませんでした。挙句の果てには、その福祉サービスに予算がまわらないと政府から切られてしまい、話すことさえもできなくなるという弱者のコメディーの世界です。

一方、強者のコメディーの世界では、唯一残された仕事としてTVで人を笑わせるコメディアンが描かれています。AI が人間の殆どの仕事をし、収益はすべて権力者側(上部構造)が持っていて、街は本当に貧しく、映画で描かれている社会では、人々は笑うことができません。このためお金を持っていようがいまいが、笑わせることができる人が未来社会の唯一生き残っている職業となっているのです。

もう我慢する世界は美しくないから、我慢せず古い秩序は全部破壊し、気持ちをアウトプットする人々を見て美しいと感じるアーサー。

街には暴力があふれ、「強者、お金持ちの秩序を維持するために我慢はやめよう」と、弱者たちが思う存分自分達の怒りを爆発し、やりたいことを∞アウトプットし破壊するのが良いとし、お金に豊かな人達の秩序をお金がない人達が全部破壊し、自分の気持ちをそのまま爆発していることを美しいじゃないかと笑いながら伝えています。

いかに、だれもが人の話や心の声が聞こえないし、信頼ができないのか。

人の話を聞く仕事をしている人でさえ、私の話を一回も聞いてくれなかったじゃないか!

あぁ、だから生きることより死ぬことが価値があるし

「生きることより硬貨な死がいい」

生きる意味はあるの?こんなの酷すぎるよ。

生きることよりは死ぬ方がよっぽどいいじゃないか!

と、西洋社会に生きる『ジョーカー』は訴えています。

お金と力を持っている人間のための秩序は全部破壊して、我慢せず∞爆発、破壊することが必要なのだという世界に、未来のアメリカの姿を感じて私は身震いしました。

これは日本に24年間住む私が、今年7月にサンフランシスコへ行った際の率直な感想ですが、現在のアメリカの貧富の格差はすごいと感じます。しっかりした掃除もしないから道はひどく汚いし臭いもひどく、日本とは比較になりません。

仮面を被って破壊に走る。

これは未来のアメリカの姿だなと思いながら、アメリカそして西洋は大丈夫なのかと心配になりました。

しかしながら、破壊して死んだら終わるのかというと、カルマが蓄積されるだけで、生まれ変わった時にもっと酷い環境と出逢う輪廻システムが待っているから、そうではなく生きたままで死ぬことが重要だと思います。

「生きるままで死ぬことが価値がある」

それは、今ここが最悪の地獄なのだということを認識することです。

実は私達人間みんな、心がジョーカー状態なのです。

本当は自分が生きる意味も価値も分からないから笑うことなどできません。お金持ちとも競争するし、自分のお金や権力を維持する為に一生懸命嘘もつかないとなりません。

お金がない人は悲惨で惨めで残酷な状態です。一歩間違えば、みんながジョーカーになる可能性があります。何が本物で何が嘘かも分からなくなります。

お金持ちの論理だと母親が勝手な妄想をしているとされていますが、本当に妄想でしょうか。見ているとそうではなくやり込められた感じがしませんか。カルテ偽装です。解析は自由でしょうが、お金を使って精神病じゃないのに精神病にさせられた可能性が十分にあり、どちらにも取れるような描写になっていたと感じました。

まともに考えても一家政婦が雇い主のことを好きになり、その人と関係を持ち、その人の子を産みたくて、養子縁組みまでしてその子供を雇い主と自分との間に生まれた子供だと妄想するなんてあり得ない話です。

しかし病院の記録ではそうなっているし、それを人に見せたら駄目だというのは、お金と権力で外に出すなという裏の圧力が働いている可能性があるし、そう予測ができるようなシナリオにもなっています。

あまりにも悲惨で残酷で屈辱でどうしようもなく、強者からしたら生きていられるよりいなくなる方が価値があるし、弱者からしても死んでしまう方が価値があるのに何で生きるのかという疑問が起きます。お金持ちも当然“自分の体を自分だ”と思い込んでいるから、お金と権力を守る為に必死で、そのポジションを守る役割を果たしたのです。結果的にピストルで殺されて死んでしまいますが、子供がそれを見ているから恨み辛みが連鎖するのです。

この映画を、倫理道徳的な啓蒙教育の意図がある映画として解析してみると、映画全般を通して一貫性あるメッセージとは何だと言えるのでしょうか?

 

それは「美しさ」、「美学」です。

私たちは、ここ10年でこれほど時代が変わることを経験したことがありません。

社会状況が変わるスピードが速い時代に生きる我々に必要なことは、

“何が美しいかを判断できる価値基準を持てること“ と

“自ら定義する力” です。

つまり「哲学」と「美学」なのです。

何を美しいと感じるか、周りから与えられる基準点ではなく、自ら主体的に獲得した観察方式、すなわち模様・形がない無境界線・無方向性・無ポジションの「源泉的動き」から認識行為が起きた時に、芸術作品としての美しさを感じることができます。

参照:

では、この映画が訴えかけている哲学的本質について考えてみましょう。

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今までは“我慢による秩序創造”の時代でした。
宗教の限界や科学の限界を超えた美学の時代に行くためには、我慢せず∞アウトプットができることで秩序を創造する、新しい時代になることが必要です。
我慢せず∞アウトプットするために模様・形・大きさがない源泉的動きそのものになりきって表現する、その世界こそが本物の美しい美学認識が可能になるのです。

今までの我慢によってつくられた秩序を、暴力的に破壊することは美しいとは言えません。
それを暴力でなく、愛で古い秩序を新しい秩序に変える、その方法がわからない。
だから映画では、仮面を被って暴力で古い秩序を破壊する下部構造の弱者である『ジョーカー』の憤怒の爆発のシーンが登場しています。

仮面を被るしかないことは本物の道ではないことを知らせ、社会の上部構造(強者)と下部構造(弱者)がWin-Win,All-Win できる美しさを実現したい。上部構造であろうが下部構造であろうが、両方が我慢せず∞爆発できること、この時に真に美しい秩序がつくられるのです。

この映画が訴えかけている哲学的本質は、仮面を被らず上部構造・下部構造の両方が∞アウトプットできるWin-Win,All-Winの道をどうつくればいいのでしょうか?
その質問を投げかけた映画だと思います。

映画監督はラストシーンでカウンセリングを受けるアーサーを登場させることで、今までのすべてのストーリーが彼の妄想に過ぎないという結論を観客から誘導したかったのでは、と推測できます。

しかし、現代人ととてもオーバーラップが多すぎるアーサーの精神状態、(量子力学的な世界観の影響で、善もあり悪もある状態)と、我慢して強者の上部構造を維持させる下部構造の人達の精神状態が、とても切実に表現されてしまったので、“笑い”で終わりたい喜劇の映画の意図とは正反対に、多様な解析・多様なシミュレーションのカオス状態を創った結果、逆にそれがビッグヒットの原動力になった映画と思います。

この映画の大ヒットは、1950年黒澤明氏の映画『羅生門』のヒット理由と繋がって理解ができます。さらに映画『ジョーカー』は、社会問題、即ち貧富格差の問題、我慢してつくる秩序の限界を訴える素晴らしい映画になっています。

貧困の問題、介護の問題、格差の問題、統合不可能な問題、我慢の問題、裏政治の汚さの問題等々の社会問題を訴えている映画『ジョーカー』の中で、日本と繋がった最も重要で気づくべき本質的問題は何かを考えてみると、

それは、善悪が明白な機械的決定論の問題と、善悪の境界線が明確ではない、曖昧、確率的量子力学の世界観のカオス問題の衝突が、この映画『ジョーカー』が生み出した社会現象であり、この時代における日本へのプレゼント(問題意識)だと感じます。

この二つのカオスを解決できるのが日本の仕事、日本の教育革命で世界の大統合することだと私は思っています。

私は「令和ジャパン」がこの道を具現化できる唯一無二の集団であるという確信があります。日本のわびさび美学が、今までの宗教・科学が諦めた本物の真理の生き方のモデルを、この時代に見せてくれることを期待します。

この道へのこの期待とともに、今ここ完全観察システムであるnTechが「令和ジャパン」に貢献できれば幸いです。